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酒井 抱一(さかい ほういつ)

1761年(宝暦11年)〜1828年(文政11年)

江戸時代後期を代表する絵師・俳人の一人。尾形光琳に私淑し琳派の雅な画風を、俳味を取り入れた詩情ある洒脱な画風に翻案し江戸琳派の祖となった。

抱一は、神田小川町の姫路藩別邸で老中や大老にも任じられる酒井雅楽頭家、姫路藩世嗣酒井忠仰の次男(第4子)として生まれました。
酒井雅楽頭家は代々文雅の理解者が多く、兄・忠以も茶人・俳人として知られ、当時の大手門前の酒井家藩邸は現代で言う文化サロンのようになっていたようです。
若い頃の放蕩時代が話題になることがありますが、兄の庇護のもと芸文の世界に親しんでいきました。

俳諧も晩年まで記し続け、抱一の芸術を語る上で外すことのできない大きな柱となっています。

1797年(寛政9年)10月18日、37歳で出家しました。その翌年から「抱一」の号を終生名乗ることになりました。

ある時期より「尾形光琳」に私淑し始めました。1815年(文化12年)6月2日に光琳百回忌を開催。抱一は、この展覧会を通じて出会った光琳の優品により、絵師として大きく成長しました。それから大作に次々と挑んでいきます。 琳派の装飾的な画風を受け継ぎつつ、円山・四条派や土佐派、南蘋派や伊藤若冲などの技法も積極的に取り入れた独自の洒脱で叙情的な作風を確立し、いわゆる江戸琳派の創始者となりました。

1828年(文政11年)下谷根岸の庵居、雨華庵にて享年68歳で死去。墓所は築地本願寺別院(東京都指定旧跡)にあります。

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略歴

1761年(宝暦11年) 播州姫路城主酒井雅楽頭別邸(神田)に生まれる。

1777年(安永4年) この頃から俳諧に親しみ風流の趣を身につける。

1783年(天明3年) 更に蜀山人らと狂歌を、馬場存義と俳諧、兄(宗雅)らと能の稽古と多彩な才能を示す。

1785年(天明5年) 当時評判の歌川豊春につき、浮世絵を本格的に学ぶ。

1797年(寛政9年) 出家する。この頃より、本所番場の邸を捨て、千束に住む。

1805年(文化2年) 浅草観音の近くに住むも、又、千束に戻るという奔放な生活の中で、画業を高めていく。

1806年(文化3年) 其角百年忌に肖像を描き、知友人に送る。

1815年(文化12年) 光琳百年記念に際し「光琳百図」を描き、琳派の後継者の地位を世に示す。

1817年(文化14年) 書業ますます高く、「四季花鳥図」「雪松図」「青面金剛図」等を描く。

1822年(文政5年) 「十二ヶ月花鳥図」十二幅を描く。

1828年(文政11年) 雨華庵にて11月29日歿す。享年68歳。墓地は築地本願寺。

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