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岡本太郎(おかもと たろう)

岡本太郎(おかもと たろう)

1911年2月〜1996年1月

岡本太郎は、1911年、神奈川県川崎市に生まれました。

父は漫画家の岡本一平、母は作家の岡本かの子です。慶應義塾普通部を卒業後、東京美術学校に入学し、洋画科を選考するも半年で中退しました。その後パリに渡り、ソルボンヌ大学で哲学・心理学を学びますが、戦争により軍隊生活を送ります。戦後復員し、東京世田谷や青山にアトリエを移し創作活動に専念します。数々の代表作がありますが、中でも1970年に大阪で開催された万国博覧会のシンボル「太陽の塔」はあまりにも有名な作品です。

「芸術は爆発だ」「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」など、数々の名言を残した事でも知られています。

日本が世界に誇る芸術家「岡本太郎」は、独創性のある発想や色彩感覚で独自の美の世界を構築しただけでなく、絵画にとどまらなず彫刻・版画・書・モニュメント・評論・エッセイ、さらにはTV出演を通してエンターテナーとしての人間「岡本太郎」を表現していたことは言うまでもありません。

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略歴

1911年2月26日 漫画家の岡本一平、歌人・小説家の岡本かの子の長男として、母・かの子の実家、大貫家のある神奈川県橘樹郡高津村二子(現・川崎市高津区二子)に生まれる。

1917年(6歳) 青山の青南小学校に入学するが、1学期で退学。日本橋通旅籠町の私塾・日新学校、小伝馬町の十思小学校と転校を繰り返す。

1918年(7歳) 慶應義塾幼稚舎に入学、寄宿舎に入る。

1925年(14歳) 野口冨士男ら同級生と謄写版の同人誌を発行。春のボートレース対抗試合に負けた悔しさを表現した水彩「敗惨の歎き」を制作。

1929年(18歳) 慶應義塾普通部を卒業。東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学。父・一平のロンドン軍縮会議の取材旅行に同行し、一家で箱根丸にて神戸港を出港。

1930年(19歳) マルセイユを経由してパリ着。両親は取材のためロンドンに向かい、太郎はパリに残る。この頃、ルーヴル美術館でセザンヌの作品を見る。夏休みをロンドンの両親のもとで過ごす。

1931年(20歳) パリ郊外セーヌ県ショワジー・ル・ロワ(Choisy le Roi)のリセで学ぶ。

1932年(21歳) 帰国する両親をパリ北駅で見送る。夏頃、ポール・ローザンベール画廊にてパブロ・ピカソ「水差しと果物鉢」(1931年)を見る。パリ大学文学部哲学科でヴィクトル・バシュのヘーゲル美学の講義を聴講する。第5回サロン・デ・シュランデパンダン展(Salon des surinde´pendant)に出品。以後、数年にわたり出品する。『ラントランシジャン(L’Intransigeant)』紙上の展覧会評で岡本太郎の名前が紹介される。

1933年(22歳) アプストラクシオン・クレアシオン(抽象・創造)協会に最年少で参加、協会主催の展覧会に出品する。

1934年(23歳)「空間」シリーズを制作。

1935年(24歳) ジュンヌ・ユーロップ画廊でクルト・セリグマン、ジェラール・ヴュリアミとグループ展を開催。セリグマンと「ネオ・コンクレティスム(新具体主義)」を提唱する。

1936年(25歳) グラン・ゾーギュスタン街にある屋根裏部屋で行われた反スターリン集会「コントル・アタック」にマックス・エルンスト、パトリック・ワルドベルグとともに参加。ジョルジュ・バタイユの演説に感銘を受ける。サロン・デ・シュランデンパンダン展に《傷ましき腕》を出品。作品を見たアンドレ・ブルトンから国際シュルレアリスム展への出品を勧められる。アプストラクシオン・クレアシオンを退会する。

1937年(26歳) G.L.M.社より初めての画集「OKAMOTO」(ピエール・クルチオン序文)が刊行される。パリ万博跡地にミュゼ・ド・ロム(人間博物館)が開館。パリ大学の学生として同館で行われていたマルセル・モース教授の下で民族学を学ぶ。

1938年(27歳) 国際シュルレアリスム・パリ展に「傷ましき腕」を出品。ジョルジュ・バタイユの推薦を受け秘密結社「アセファル(無頭人)」に参加する。第1回巴里日本美術家展(ベルネーム・ジュヌ画廊)に出品。

1939年(28歳) 2月18日母・岡本かの子没(享年49)

1940年(29歳) 「夜」が表紙を飾った岡本かの子「生々流転」(改造社)が発行される。 ドイツ軍によるフランス侵攻により、マルセイユからの最後の帰国船・白山丸にて帰国の途につく。

1941年(30歳) 第28回二科会に滞欧作品「傷ましき腕」「コントルポアン」など4点を出品し、二科賞を受賞する。岡本太郎滞欧作品展(銀座三越)を開催。横光利一、藤田嗣治、岡鹿之助らがパンフレットに寄稿。「母の手紙」(婦女界社)を刊行。

1942年(31歳) 応召し現役初年兵として中国戦線に出征。

1946年(35歳) 約半年間の中国・長安付近での俘虜生活を経て復員。戦火により青山の自宅にあった全ての作品を焼失したことを知る。父・一平の疎開先である岐阜県加茂郡古井町下古井に行き、一平と再会。母・かの子の実家、大貫家で暮らす。この頃、鎌倉の川端康成宅にも居候をする。世田谷・上野毛にアトリエを構える。

1947年(36歳) 二科会会員に推挙される。第32回二科展に「夜」「憂愁」を出品。

1948年(37歳) 花田清輝らと「夜の会」を結成し、前衛美術運動を始める。埴谷雄高、野間宏、椎名麟三らが参加。第1回モダンアート展(主催・日本アヴァンギャルド美術家クラブ)に《真昼の顔》《憂愁》など出品。「アヴァンギャルド芸術研究会」を花田清輝とともに結成。池田龍雄、勅使河原宏、山口勝弘、福島秀子、北代省三、瀬木慎一、平野敏子らが参加。第33回二科展に《夜明け》等を出品。

1948年(37歳) 10月11日父・岡本一平没(享年62)。一平のデススケッチを描く「岡本太郎画文集 アヴァンギャルド」(月曜書房)を刊行。自らの芸術理念の核として「対極主義」を提唱する。

1949年(38歳) 第1回日本アンデパンダン展(主催・読売新聞社)に「赤い兎」を出品。夜の会編「新しい芸術の探求」(月曜書房)を刊行。第34回二科展に「重工業」を出品。

1950年(39歳)現代美術自選代表作十五人展(主催・読売新聞社)に、前年に再制作した「傷ましき腕」「露店」を出品。第2回日本アンデパンダン展(主催・読売新聞社)に「堕天使」を出品。開会日に食堂で「対極主義宣言」を読み上げ、「対極主義美術協会」の結成を呼びかけるも、賛同を得られず。第35回二科展に「森の掟」を出品。

1951年(40歳) 戦後に制作した作品を集め、戦後初の個展岡本太郎展(日本橋三越)を開催。東京国立博物館で縄文土器を見て衝撃を受ける。

1952年(41歳) 縄文土器を見た衝撃を「四次元との対話―縄文土器論」として「みづゑ」に発表。第4回日本アンデパンダン展(主催・読売新聞社)にモザイクタイル作品「太陽の神話」を出品。日本橋・?島屋地下通路にモザイクタイル壁画「創生」を制作。伊奈製陶常滑本社にて「創生」とともに陶作品「顔」を制作。パリのサロン・ド・メ展に「夜明け」を出品。大阪・?島屋にて渡欧記念岡本太郎展を開催。翌年5月まで、ヨーロッパを再訪。マックス・エルンスト、ジャン・アルプらと再会する。

1953年(42歳) パリ・クルーズ画廊にて個展を開催。当時パリにいた海藤日出男、菅井汲、今井俊満、田渕安一らの助力を得て展示。オープニングにオシップ・ザッキ ン、ソニア・ドローネー、ジョルジュ・バタイユ、ミシェル・ラゴン、アンリ・ミショー、フィリップ・スーポーらが来訪する。南フランス・ヴァロリスのピカソのアトリエを訪ね、ピカソと会う。日本のアヴァンギャルド芸術家約30人と滝口修造、植村鷹千代ら批評家が国際アートクラブ日本本部を結成。代表に選出される。ニューヨーク・ヒューゴ画廊にて個展を開催。ワシントンDCに巡回。日本橋・?島屋のショーウィンドウ8面のディスプレイを担当。6日東京国立博物館表慶館で開催されたルオー展の会場で解説をおこなう。これを日本テレビが生中継で放映、初めてテレビに出演する。第2回サンパウロ・ビエンナーレ展に日本代表の一人として「クリマ」等を出品。「青春ピカソ」(新潮社)を刊行。

1954年(43歳) 坂倉準三設計のアトリエ(現・岡本太郎記念館)が青山に完成、現代芸術研究所を設立。第27回ヴェネチア・ビエンナーレに、坂本繁二郎とともに日本代表として出品。「今日の芸術―時代を創造するものは誰か」(光文社)を刊行、ベストセラーになる。画集「T.OKAMOTO」(美術出版社)日本語版・フランス語版を刊行。父・一平の七回忌法要をおこなう。多磨霊園に墓碑として陶作品「顔」を設置。

1955年(44歳) 淡交社主催「実験茶会」の亭主としてアトリエで茶会を催す。客に丹下健三、北大路魯山人ら。第3回日本国際美術展に「燃える人」を出品。ヘリコプターで東京・銀座の夜空に光で絵を描く。第40回二科展に「瞬間」を出品。太郎が声をかけた内外の若手作家を集めた第9室が「太郎部屋」と呼ばれ注目を集める。大映のSF映画「宇宙人東京に現わる」(監督・島耕二)の宇宙人等のデザイン、色彩指導を行なう。現代芸術の会第1回例会が開かれる。出席者は岡本のほか、丹下健三、亀倉雄策、柳宗理ら。以降57年3月まで毎月例会がもたれ、花田清輝、安部公房、丹下健三ら様々なジャンルの講師を迎え、芸術家志望の若者ら多数が参加。

1956年(45歳) 築地・松竹セントラル劇場にモザイクタイル壁画「青春」を制作。縄文土器論を収録した『日本の伝統』(光文社)を出版。東京・大手町の大和証券ビルに陶板レリーフ壁画「踊り」を制作。丹下健三設計の旧東京都庁舎に「日の壁」等7面の陶板レリーフを制作。国際アートクラブが企画した世界・今日の美術展(主催・朝日新聞社)にジョルジュ・マチウ、サム・フランシス、ジャン・フォートリエらアンフォルメルの作家を多数紹介する。

1957年(46歳) 「藝術新潮」に「芸術風土記」を連載。日本各地を精力的に取材する。第11回ミラノ・トリエンナーレに陶板壁画「陽」を出品。ミシェル・タピエからジョルジュ・マチウを紹介される。マチウの公開制作のためにアトリエの庭を提供する。アンフォルメルがブームとなる。

1958年(47歳) 国鉄(現・JR)神田駅に「花ひらく」等、3面のクラッシュタイル壁画を制作。第3回現代日本美術展に「ドラマ」を出品。「日本再発見―芸術風土記」(新潮社)を出版。

1959年(48歳) 東京都庁舎の壁画がフランスの雑誌「今日の建築」第1回国際建築絵画大賞を受賞する。「画文集 黒い太陽」(美術出版社)を出版。武智鉄二演出の野外オペラ「ローエングリン」(東京国立競技場)の美術を担当。第44回二科展に彫刻《動物》を出品する。沖縄を旅行し「御嶽」に感動する。長野県・戸倉上山田ヘルスセンターのスポーツランドに高さ約4メートルの彫刻「動物」を制作。

1960年(49歳) 「中央公論」に「沖縄文化論」を連載する。東京・銀座松屋中央ホールに空間造形「真夏の夢」を制作。

1961年(50歳)「忘れられた日本(沖縄文化論)」(中央公論社)を出版。11月、毎日出版文化賞を受賞する。草津・白根山でスキー中に骨折。ギプスをはめられた足に着想を得て、彫刻「あし」を制作。東宝劇団歌舞伎旗揚げ興行「寿二人三番叟」(東京宝塚劇場)の美術を担当。二科会を脱会する。銀座・東京画廊にて岡本太郎展を開催。

1962年(51歳) カルピス食品工業相模原工場に、モザイクタイル壁画「初恋」を制作。高野山を取材。以後63年にかけて各地の信仰、祭りなどを取材し雑誌に紀行文を発表。第5回現代日本美術展(主催・毎日新聞社)に「若い闘争」「秘教」を出品する。川崎市高津区・多摩川河畔に岡本かの子文学碑「誇り」を制作。東京・池袋駅前広場にクリスマスツリーとして高さ12メートルの「メリーポール」を制作。

1963年(52歳) フランス、アメリカ、イタリア、メキシコを旅行する。アントニン・レーモンドの依頼によりD氏邸(東京・渋谷)に彫刻と壁画による浴室を制作。「坐ることを拒否する椅子」を制作。東京・池袋駅前広場に、東京オリンピックを記念したモニュメント「ヴィクトリー・ポール」を制作。

1964年(53歳) 岡本太郎展(第1会場/池袋・西武百貨店、第2会場/銀座・東京画廊)を開催。第1会場の会場構成は磯崎新が担当。名古屋、川崎、仙台、福岡、千葉、大阪を巡回。丹下健三設計による国立代々木競技場第一体育館に「競う」など8面の陶板レリーフを制作。東京オリンピック参加記念メダルを制作。「神秘日本」(中央公論社)を出版。韓国を取材。

1965年(54歳) 「週刊朝日」に「岡本太郎の眼」を連載。鐘と炎展(銀座・東京画廊)を開催。名古屋・久国寺に梵鐘「歓喜」を制作。

1966年(55歳) 香港、マカオを取材旅行。伊豆・日通伊豆富士見ランドに「太陽の鐘」等を制作。銀座・数寄屋橋公園に「若い時計台」を制作。沖縄を再訪し、イザイホーの神事を取材。

1967年(56歳) 山形県・寒河江市庁舎中央ホールに光る彫刻「生誕」を制作。日本万国博覧会のテーマ展示プロデューサーに就任。テレビ映画「岡本太郎の探る中南米大陸」撮影のため中南米を旅行。メキシコの実業家から建設中のホテルの壁画制作を依頼される。万国博テーマ館の基本構想とスケッチが新聞各紙に発表される。

1968年(57歳) 万国博への国際協力要請のため、パリ、プラハ、ロンドンを歴訪。グルノーブル・オリンピックを視察。メキシコのホテル、オテル・デ・メヒコの大壁画「明日の神話」制作のため、現地にアトリエを構える。「原色の呪文」(文芸春秋)を出版。万国博テーマ展示の基本構想を発表。太郎爆発展(東京・銀座松屋)を開催。会場構成は粟津潔と原広司。建築設計を行った《マミ会館》(東京・大田区山王)が竣工。画集「岡本太郎」(美術出版社)を出版。

1969年(58歳) 愛知・犬山ラインパーク(現・日本モンキーパーク)に「若い太陽の塔」を制作。大分・別府駅前サンドラッグ・ビルの外壁に陶板レリーフ壁画「緑の太陽」を制作。メキシコにて「明日の神話」完成。

1970年(59歳) 「藝術新潮」に「わが世界美術史」を1年間連載。万国博シンボルゾーン中央に「太陽の塔」「母の塔」「青春の塔」を含むテーマ館が完成。テーマ館館長に就任。パリにて個展「La vie quotidienne a` Tokyo en 1970」を開催。泉靖一との対談「日本列島文化論―日本人は爆発しなければならない」(大光社)を出版。

1971年(60歳) パリ、フォーブル・サントノーレ芸術祭「街の美術館」に「樹人」を出品。「祭りの王様」に選ばれる。「美の呪力」(新潮社)を出版。名古屋・オリエンタル中村百貨店の正面外壁に「光る大壁画」を制作。

1972年(61歳) 山陽新幹線開通にあわせ、新幹線岡山駅に陶板壁画「躍進」を制作。ミュンヘン市・ハウス・デア・クンストで開催されたシュルレアリスム1922-1942展に「傷ましき腕」を出品。パリ装飾芸術美術館に巡回(5月まで)。ミュンヘン・オリンピック公式メダルを制作。

1973年(62歳) 飛行船に絵を描く。パリ、ポール・ヌムールより版画集「アプストラクシオン・クレアシオン―アール・ノンフィギュラティーフ 1932-36」が刊行される。アルプ、カンディンスキー、モンドリアンらとともに代表作家30名に選ばれる。

1974年(63歳) 東京・NHK放送センター・ロビーに「天に舞う」を制作。「TAROきもの」発売。パリ、ポール・ヌムールより、シルクスクリーン版画集「絶対的、そして無目的に」を刊行。長野県・野沢温泉に「シュナイダー記念碑」を制作。諏訪大社近くの「万治の石仏」に出会い、絶賛する。

1975年(64歳) 「太陽の塔」の永久保存が決定される。東京・晴海で開催された店舗システム・ショーに岡本太郎そっくりの人形(七彩工芸製作)が出品され話題となる。パリ大学民族学教授ジャン・ルーシュによるドキュメンタリー映画「岡本太郎−マルセル・モースの肖像」が、イタリア・アゾロ映画祭で伝記映画賞を受賞。パリ国際センターに「風」「いこい」など5枚のレリーフ壁画を制作。

1976年(65歳) 「美の呪力」の仏訳がパリ、セゲール社より出版される。TARO展―挑み・燃え・ひらく岡本太郎(日本橋・?島屋)を開催。パリ市立ガリエラ美術館に巡回する。「顔のグラス」を制作。ガリエラ美術館での展覧会を記念して、フランスにおいて版画集『De´chirure』、画集『TARO OKAMOTO Le baladin des antipodes』(「対極の中の遊び」)が出版される。スペインを取材、翌年1月に『報知新聞』に紀行文を連載。

1977年(66歳) ティーセット「夢の鳥」が発売される。スペイン国立版画院に日本人としてはじめて銅版画「石と樹」等が収蔵される。ベルギーで制作した創作デザインのトランプが発売される。「岡本太郎の挑戦するスキー」(講談社)を出版。

1978年(67歳) パリ、マジョルカ島、バルセロナを取材。福山市・日本はきもの博物館中庭に「足あと広場」を制作。

1979年(68歳) 札幌雪まつり30周年を記念するシンボル大雪像「雪の女神」を制作。「岡本太郎著作集」(全9巻、講談社)を刊行。現代の神話ー岡本太郎の世界展(西宮市大谷記念美術館)を開催。作品集『岡本太郎』(平凡社)を出版。

1980年(69歳) 挑む岡本太郎展(新宿・小田急グランドギャラリー)を開催。これを記念して新宿駅西口広場で、絵画文字「挑む」の公開制作を行う。鯉のぼり「TARO鯉」が発売される。諏訪の御柱祭を取材する。

1981年(70歳) テレビセミナー「マイコン時代」(TBS)に出演、はじめてコンピューターで絵を描く。岡本太郎展(山梨県立美術館)を開催。画集「遊ぶ字」(日本芸術出版社)を刊行。「日立マクセルビデオカセット」のコマーシャルに出演。「芸術は爆発だ!」の言葉が流行語となる。

1982年(71歳) 島根県・松江市総合運動公園に島根くにびき国体のシンボル「神話」を制作。青森県・古牧温泉渋沢公園に「かっぱ神像」を制作。「美の世界旅行」(新潮社)を出版。相模原市・西門買物公園通りに「呼ぶ 赤い手・青い手」を制作。テレホンカード「遊ぶ字」シリーズが日本電信電話公社(現・NTT)より発売される。

1983年(72歳) 山形県の観光スキー映画「山形は白い国、岡本太郎のスキー」に出演。徳島県・大塚製薬徳島研究所に高さ22メートルの陶板壁画「いのち踊る」を制作。オリジナルデザインの振袖・帯などが発売される。

1984年(73歳) フランス香水フェアのシンボル「香りの塔」をラフォーレ原宿前に制作。栃木県・鹿沼市民文化センターに「夢の樹」を制作。

1985年(74歳) 国際科学技術博覧会のシンボルモニュメント「未来を視る」を制作。青山・こどもの城にシンボル「こどもの樹」を制作。再構成・日本の前衛美術 1945-65展(イギリス・オックスフォード近代美術館)に「重工業」「森の掟」を出品。

1986年(75歳)岡本太郎の世界展(名古屋・名鉄百貨店)を開催。大阪、茨城県・笠間、新潟、仙台、金沢を巡回。前衛芸術の日本1910-1970展(パリ・ポンピドゥー・センター)に「傷ましき腕」「森の掟」を出品。

1987年(76歳) 「さよなら国鉄・新生JR」の記念メダル「出発」を制作。NHKテレビドラマ「ばら色の人生」に俳優として出演。

1988年(77歳) ぎふ中部未来博にシンボルモニュメント「未来を拓く」を制作。ダスキンのフリーデザインマットのコマーシャルに出演。翌年、アメリカの第29回国際放送広告賞を受賞する。船橋市・ふなばしアンデルセン公園に「平和を呼ぶ」を制作。

1990年(79歳) 岩手県・藤沢町の縄文野焼祭・縄文サミットに参加。シンボルとして「縄文人」を制作。

1991年(80歳) 青森県・奥入瀬渓流グランドホテルに暖炉彫刻「森の神話」を制作。東京都庁の新宿移転にともない、丸の内庁舎の取壊しが決定する。56年制作の陶板レリーフの保存運動がおこるが、9月に取り壊される。川崎市に主要作品を寄贈。翌年、岡本太郎美術館の建設計画が発表される。

1993年(82歳) 浦安市運動公園に「躍動の門」「五大陸」を制作。川崎市・入江崎総合スラッジセンターに陶板壁画「水火清風」を制作。

1994年(83歳) 世界祝祭博覧会にシンボルモニュメント「であい」を制作。

1995年(84歳) 岡本太郎展(大阪・?島屋、広島市現代美術館を巡回)を開催。

1996年(85歳) 1月7日急性呼吸不全にて死去。草月会館草月プラザにてお別れ会「岡本太郎と語る広場」が開かれる。青森県・奥入瀬渓流第二グランドホテルに暖炉彫刻「河神」が完成。世界・炎の博覧会のシンボルモニュメント「花炎」が完成。

1997年 財団法人岡本太郎記念現代芸術振興財団が設立される。同財団が「岡本太郎記念現代芸術大賞」を創設。

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