TOP美術品に関して川合 玉堂(かわい ぎょくどう)

川合 玉堂(かわい ぎょくどう)

川合 玉堂(かわい ぎょくどう)

1873年 〜 1957年
川合玉堂は、1873年(明治6年)愛知県葉栗郡外割田村(現在の一宮市木曽川町)に、筆墨紙商の長男として生まれました。12歳頃より絵に親しみ、京都にてはじめ望月玉泉門下、後に幸野楳嶺門下で円山・四条派を学びます。
「玉堂」と号するのは1890年(明治23年)、17歳のとき。この際「春渓群猿図」「秋渓群鹿図」は第3回内国勧業博覧会に入選しています。1896年(明治29年)、23歳のとき上京し橋本雅邦に師事します。岡倉覚三(天心)、雅邦、横山大観らの創立した日本美術院には1898年(明治31年)当初より参加しました。1900年(明治33年)頃からは私塾「長流画塾」を主宰、1907年(明治40年)には第1回文部省美術展覧会(文展)審査員に任命され、また1915年(大正4年)からは東京美術学校日本画科教授、1917年(大正6年)には帝室技芸員に任じられ日本画壇の中心的存在の一人となりました。1931年(昭和6年)にフランス政府からレジオンドヌール勲章、1933年(昭和8年)にはドイツ政府から赤十字第一等名誉章を贈られ、1940年(昭和15年)には文化勲章を受章しました。

第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)に、かねてより頻繁に写生に訪れていた東京都西多摩郡三田村御岳(現・青梅市)に疎開、住居を「偶庵」、画室を「随軒」と称します。戦後も同地の自然を愛する玉堂はそのまま定住、その地で1957年(昭和32年)に死去しました。

贈勲一等旭日大綬章(没時叙勲)。神奈川県横浜市金沢区には1917年(大正6年)頃に建設した別邸「二松庵」があり、横浜市指定の有形文化財として月1回の一般公開もなされていたが、2013年(平成25年)10月16日に発生した火災により全焼してしまいました。二松庵庭園は2016年(平成28年)11月4日に名勝として横浜市指定文化財に指定されました。
玉堂は、日本の四季の山河と、そこで生きる人間や動物の姿を美しい墨線と彩色で描くことを得意としました。玉堂のもとには長野草風、池田輝方、池田蕉園、松本姿水、山内多門ら多くの門人がいました。

川合玉堂の作品を見る

略歴

1873年 愛知県葉栗郡に生まれる。

1887年 望月玉泉の門に入り「玉舟」の雅号を頂く。

1890年 第三回内国勧業博覧会に「春渓群猿図」「秋渓群鹿図」を出品、褒状を受ける。号を「玉堂」と改める。幸野楳嶺の門に入る。

1895年 第四回内国勧業博覧会に「長良川鵜飼」を出品。

1896年 上京し、雅邦の門に入る。

1898年 日本美術院第一回展に「冬嶺孤鹿」を出品、三等銅牌受賞。

1907年 東京勧業博覧会に「二日月」を出品、一等賞を受賞。文展審査員となる。

1916年 第十回文部省美術展に「行く春」を発表、画名大いにあがる。

1919年 帝国美術院の会員となる。

1931年 フランスよりレジョンドヌール勲章拝受、イタリア皇帝よりグラン・オフィシュー・クーロンヌ勲章拝受。

1937年 帝国芸術院が誕生、会員となる。

1940年 紀元二千六百年奉祝美術展に「彩雨」を出品。文化勲章を受賞。

1945年 御岳に移り画房を「偶庵」と称す。

1957年 三月三十日逝去、絶筆は「出船」。正三位勲一等に叙せられる。

川合玉堂の作品を見る

作家別で探す

作品ジャンル別で探す