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宮本 武蔵(みやもと むさし)
1582年(天正10年)〜1645年(正保2年)
宮本武蔵は、1582年(天正10年)に播磨国(現在の兵庫県)の新免無二斎の子として生まれました。13歳で兵法を志し、1600年(慶長5年)天下分け目の戦いと言われた関ヶ原の戦いに弱冠16歳にして参戦した彼は、加藤清正の臣であった母方の家を継いで、宮本武蔵義恒(みやもとむさしよしつね)と名乗りました。その戦いを前後して、武蔵は禅宗の名僧沢庵宗彭(たくあんそうほう)と出会い、禅と剣の道について考えるようになります。
以後、剣禅一如の思想(剣道の究極の境地は、禅の無念無想の境地と同じであるという考え)を抱いてひたすら修行を重ね、二刀を使いこなすという有名な二天一流を編み出し、数々の白刃の対立を経て、遂にはその境地を悟るに至ったのです。
61歳でその生涯を終えるまで、武者修行と精神の修練に徹し、一度も勝負に遅れをとったことがなかったことから、彼は「剣聖」「英雄」として崇められ、今も人々に愛され続けています。
しかし、宮本武蔵の芸術家としての一面を見逃すわけにはいきません。
修行の一環として、自己の修行表現のために描いた書画。又、晩年には、修行から得た剣禅一如の境地を絵筆に託し、数々の水墨画を描いていますが、どの作品も枯淡超脱の味わいある見事な出来映えです。 その豊かな表現は、繊細でありながら勢いのある筆致、鮮やかな色彩さえも感じさせる微妙な墨の濃淡など、計算し尽くされた完璧な筆さばきにあります。これは、剣の道を極めた武蔵でこそなせる技です。
武蔵の芸術は、武者修行と精神の修練の賜物であり、言うなれば、武蔵の人生の所産です。「武道家 武蔵」が生んだ「芸術家 武蔵」は、「武道家 武蔵」がその一生をかけて頂点を極めたと同様に、ある一つの頂点を極めているのです。
略歴
1562年(天正10年) 播磨国に生まれる。
1594年(文禄3年) 初勝負。新当流有馬喜兵衛に打ち勝つ。
1597年(慶長2年) 但馬国秋山という強力な兵法者に打ち勝つ。
1600年(慶長5年) 「石田治部少補 謀判時」(関ヶ原)に巧あり。
1602年(慶長7年) 都へ上り吉岡一門を打破る。(13歳より、28・29歳まで国々に至り、諸流の兵法者に会い、60余度の勝負に勝つ。)
1610年(慶長15年) このころ小倉に来、巌流小次郎(佐々木小次郎)を破る。
1615年(元和1年) 「大阪秀頼公兵乱時」(大坂の陣)に功あり。
1637年(寛永14年) 島原の乱に参陣。
1640年(寛永17年) 2月、細川忠利に仕官するにあたり、返答書を送る。 8月、細川藩より七人扶持、合力米18石を与えられる。
1641年(寛永18年) 2月、兵法35ヶ条を書き上げる。 9月、細川藩より米300石を遣わされる。
1642年(寛永19年) 11月、細川藩より米300石を遣わされる。
1643年(寛永20年) 10月、霊巌洞にのぼり五輪書を書き始める。
1644年(正保1年) 病に伏す。
1645年(正保2年) 5月12日、五輪書を寺尾孫之丞に与える。
1645年(正保2年) 5月19日死去(64歳)。奉勝寺にて葬儀が行われる。